NHKカルチャーアワー・東西傑物伝(2001年7月-9月)ラジオ第2放送で、本年7月25日に福本秀子 講師(パリ高等経営学院)の講義された『ヨーロッパ中世を変えた女たち』(NHK出版)の「第4回 教会を動かした女たち(2)~ブリジッド・ド・スエードとカタリナ・ダ・シエナ~」より

 カタリナは、シエナの町の貧しい染物屋の25人の子どもの下から2番目として生まれました。………… カタリナも女の双子の一人で、妹のジョヴァンナは生後すぐに亡くなっています。
 6歳になった時、母親のお使いで兄と一緒に姉の所へ行き、用事を済ませて坂道を下って帰る時、カタリナが目を天にあげると、説教者兄弟会の屋根の上に、主イエス・キリストが教皇の盛装で、頭上に三重冠をいただいて座っておられるのが見えました。そのそばには聖ペテロ、聖パウロ、福音者聖ヨハネが立っています。カタリナは恍惚となって立ちどまります。救い主は彼女に微笑みかけ、手を伸ばし、司教がするように十字架の形で祝福を与えられました。………

 カタリナは、7歳の時すでに聖母マリアに祈り誓願していました。
 「私の唯一の主であるあなたの御子イエス・キリストを私にお与え下さい。私は決してほかの夫を迎えず、いつも純潔で汚れのない身を保つことを、この『御方』とあなたに誓います。」
 彼女はその処女性を神に捧げたのです。カタリナが12歳の時、救い主はこの願いを聞きいれ、4つの宝石で飾られたみごとな金の指輪を彼女に贈ります。
 「あなたの創造主であり救い主である私は、あなたを『信仰』において娶る。あなたはこれを、私たちが天において永遠の婚礼を挙行するまで、純潔に守るがよい。娘よ、今は勇気をもって行動し、私の摂理があなたに委託する事業を恐れなく成しとげるがよい。あなたは『信仰』によって武装している。すべての敵に対して勝利を納めるであろう。」
 こう言って救い主は消え、指輪はカタリナの指に残りました。彼女にはそれが見えましたが、ほかの人には見えませんでした。………

 聖徳の誉れ高いカタリナのまわりには多くの人々が集まっていました。ことに詩人や音楽家が多く、また僧侶、聖職者、俗人等もいました。彼女はそれを「麗しき群れ」と名づけました。彼らはドミニコ会の、この若い第三次会員(修道の戒律を守っている俗人信徒)であるカタリナが、彼らが求めている精神生活を生ぜしめ、かつ開花させてくれることを願って、彼女のまわりに引きつけられていたのです。
 それに反して当時のアヴィニョン教皇グレゴリウス11世のまわりには、神学者、学者、科学者、知識人、バリ大学の人々がとりかこんでいました。彼らはフランス王の顧問団を構成して、教皇に影響力を与えていたのです。
 このような状況のもと、事件がおこります。1375年ごろ、それまで教皇座にもっとも献身的であったフィレンツェ市が反乱をおこし、教皇の地上の権力を否定するようになりました。そこで、グレゴリウス11世はフィレンツェの人に対して恐るべき勅令を発します。「フィレンツェが通商をおこなっていたすべての国々の領主たちに、フィレンツェ人のすべての財産を差しおさえさせた」のです。
 この処罰の結果、フィレンツェの人々は、教皇と友好関係をもっている人を介して、教皇に和平を求めざるを得なくなり、彼らはそれをカタリナに頼むことにしました。フィレンツェの主だった人々は、彼女に対して「アヴィニョンへ行って教皇と交渉してください」と嘆願します。
 まずライモンド・ダ・カプアが、先にアヴィニョンに着きました。教皇とカタリナの通訳をつとめるためです。教皇はラテン語を話し、カタリナはトスカーナ語を話すからです。
 教皇はカタリナに言いました。
 「私が和平を望んでいることをあなたに証明するために、すべての交渉をあなたの手にゆだねます。ただ教会の名誉を大切にしてください。」
 カタリナは教皇に言います。
 「フィレンツェの人々に対して、裁判官の厳格さよりも父の哀れみをお示しください。」
 カタリナの生涯の目的は、第1にキリスト教団の首長たちの間を調停して平和を築くことです。フィレンツェの人々の願いを聞いたのもそのためです。第2に教会改革への努力、つまり教皇をアヴィニョンからローマへ連れもどすことです。
 彼女が信者の一行とアヴィニョンに着いたのが、1376年6月18日、2日後の6月20日には教皇グレゴリウス11世に会い、ローマ復帰の決心を迫るのです。当然教皇は躊躇します。前任者のウルバヌス5世が、はやばやとローマからアヴィニョンに逃げ帰った経緯もあるのです。最終的に1377年1月17日、教皇はローマへ復帰し、ここに「教皇のバビロン捕囚」といわれていたアヴィニョン滞在は、グレゴリウス11世をもって終わるのです。王族でも貴族でもない、一介の染物屋の娘カタリナの説得が、教皇の心を動かしたのです。………

 不幸な教会大分裂が終息したのち、1461年、時の教皇ピウス2世はカタリナを聖人として列しました。聖女の祝日は4月30日です。1855年にピウス9世は、聖女の遺体をミネルヴァ教会に移葬する荘厳な儀式を行い、1866年には聖カタリナをローマ第2の守護聖人と定めました。カタリナが教皇庁をアヴィニョンからローマに帰還させたからです。さらに20世紀に入るとパウロ6世は1970年10月、聖カタリナを「教会博士」と宣言しました。

 現在まで30数名の教会博士がおり、その中に2人の聖女が数えられています。一人が14世紀の聖女カタリナ、もう一人は16世紀のアヴィラの聖女テレジアです。※
 20世紀、ローマに聖女カタリナの学院が設立されましたが、日本にも愛媛県に「聖カタリナ大学」と「聖カタリナ大学短期大学部」があり、図書館には「カタリナ文庫」が設けられています。シエナの聖カタリナの精神と教訓を今日に生かすべく設立されたのだと思います。
 私が翻訳をしておりますフランスの中世史家、レジーヌ・ペルヌー女史は言っています。

<もしも男性の力だけが世界に影響を与えるなら、必ずそこには戦争がおこる。女性の影響力も加えて均衡をとらなくてはならない。中世ではその均衡がよく保たれていた。中世では女性は政治にも教会にも権力をもっていた。その後ルネサンスの時代になると、運命の糸車はしだいに女性の輝きを消す方向に回転を始め、その輝きをとりもどすには20世紀を待たなければならない。>

 カタリナの活躍は、まさに社会を正常な均衡状態に変える戦いでした。女性の活動と貢献が必要とされる、現代女性の先駆者のような役割だったと思います。

※1997年にフランス・リジューの聖テレーズ(1873~1897)が教会博士となったので、現在は教会博士の中に聖女は3人。