(1347年3月25日~1380年4月29日)

シエナの聖カタリナは、カトリック教会を擁護した最初の女性教会博士として、また神との深い一致を体験した神秘家として、より完全な形でキリストに従う者として、2000年の教会史の中にその名をとどめている。

1347年、彼女はシエナの裕福な染物屋の娘として生まれ、幼い頃より、近くにある聖ドミニコ教会とその司祭に対する尊敬をいだいていた。6歳の頃に,その聖ドミニコ教会の尖塔にキリストご自身が教皇座に就き、使徒聖ペトロと聖パウロと共に、カタリナに祝福を与えられたという示現が、彼女の一生を決定づけたといわれている。その後は家業の手伝いをしながら、自己の部屋において苦行と祈りの生活に徹する。カタリナの生きた封建時代の特徴として、女性が勉学や社会的活動に参加することはほとんど例がなかった。

1364年、神は彼女に現実の社会で人々との交わりを通して、神と隣人への愛を証しする道に進むように促す。カタリナはドミニコ会の第三会員となり、貧しい人、病気の人のために働いた。この時代ヨーロッパ一帯を襲ったペストは、イタリアにおいても多くの死者を出したが、カタリナはシエナのスカラ病院でその患者の世話のために奉仕していた。

1370年、カタリナが神との深い観想的祈りの中で、キリストの心臓とカタリナの心臓を交換するという神秘的な体験をし、その時キリストが「これからは、この心臓があなたの役に立つ」といわれたと彼女自身が語っている。このことは、やがてカタリナがこの時代の教会と国家間の渦中の人となるために準備された神の恩恵であったといえる。 

ところで、カタリナが生まれる前の1305年から、歴代の教皇はローマを離れ、フランス・アヴィニョンおいて王の権力下にあった。教皇不在のローマでは、教会内は退廃し、巷は権力闘争にあけくれていった。カタリナは一介の女性でありながら、教皇グレゴリオ11世のローマ帰還を促すためにその交渉にあたることになる。伝記によれば、このようなデリケートな外交問題の折衝にあたり、聖母マリアが一人のドミニコ会士、カプアのライムンドを彼女のために選ばれたと記されている。彼はカタリナの聴罪司祭として彼女に随伴し、教皇とカタリナの相互に交わされる会談の際に通訳の任を果たしていた。

1376年、カタリナは教皇に対して反乱を起こしたフィレンツェ市民の調停役として、また教皇のローマ帰還を説得するためにアヴィニョンに赴くことになった。その席で、教皇がカタリナにフィレンツェ市民との和平の任を委ねた時、カタリナは教皇に慈父の愛をもって彼らを許すように願った。カタリナの強い要望により教皇は1377年1月にローマに帰還し、それ以後教皇はローマを離れたことはなかった。この歴史的な偉業を終えた後、カタリナは故郷のシエナに帰り、そこで167章からなる膨大な「対話」の著作に入る。これは観想のうちに神との対話から生まれたカタリナの神秘神学の集大成となった。

その後教皇グレゴリオ11世が逝去し、その後継者として選出されたウルバノ6世に反対して選出されたクレメンス7世が対立教皇として擁立されたために、教会のいわゆる歴史的な「西方教会の分離」という重大な問題に発展していった。このことは正当な教皇ウルバノ6世を支持するカタリナにとって極めて大きな苦しみの原因となった。教皇ウルバノ6世は彼の協力者であるカタリナをローマに召喚し、枢機卿たちの前で語った彼女の教会に対する忠誠と確信に満ちた言葉に教皇は恥じ入ったと記している。

1379年ローマにおいてカタリナは分裂した教会の一致と和解のために働いたが、この頃から、カタリナの健康は著しく衰弱していった。その臨終の床で、彼女に従ってきた仲間たちの保護を願い、自分の生命はキリストの花嫁である教会のために全て捧げたと語った。1380年4月29日、カタリナ33歳の生涯を全うした。その遺体はローマのミネルバ教会の祭壇の下に安置されている。

カタリナの死の時、ライムンドはフランス王の要請でジェノバに来ていたが、彼はその事実を奇跡によって知った。旅先の宿の聖母マリアの像の前で祈っていた時、カタリナの霊はライムンドと共にあって、彼が新しい教会の柱となるようにという言葉を遺言として理解した。カタリナの死後、ライムンドはドミニコ会総長として、教会の運命と共にしたカタリナの生涯について記録した優れた伝記作家として知られている。この伝記は、後に彼女の教会博士としての審議および調査の際の貴重な証左となったのである。シエナの聖カタリナは、比類のない活動的神秘家、現代女性の先駆者であり、模範として、そしてカトリック教会の擁護者として、その像は今もローマ・バチカン広場の入り口に立っている。

1461年:
聖カタリナはピオ2世によって、聖人となった。
1866年:
教皇庁をローマに帰還させた聖カタリナの功績をたたえ、聖ペトロ、聖パウロに次ぐローマ第2の守護者となった。
1939年:
聖カタリナはピオ12世によって、イタリアの守護者となった。
1943年:
聖カタリナはピオ12世によって、イタリアの看護師の保護者となった。
1970年:
10月4日、聖カタリナはパウロ6世によって、最初の女性教会博士となった。
1999年:
聖カタリナはヨハネ・パウロ2世によって、ヨーロッパ全体の守護聖人の一人となった。
アルベルト・カルペンティール師(1918-2020)

ベルギーに生まれ、日本の宣教師として生涯を捧げたドミニコ会士。(写真中央)
師が聖カタリナ大学のために描いた左の絵は、聖書を手に持つ教会博士としての聖カタリナ。
右の絵は、キリストとの心臓の交換をあらわす神秘家としての聖カタリナ。
師の壁画、版画、油絵、ステンドグラス、砥部焼の聖ドミニコの生涯などの数多くの作品が展示されているギャラリーは、本学にとってまさに『神と芸術の対話』の宝庫となっている。